主題講演テーマ:主の再び来たりたまふを待ち望む教会
日時:9月7日~8日
会場:石和名湯館 糸柳
霊と花嫁が共に言う。「来りませ。」これを聞く者も言うがよい。「来りませ。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。霊と花嫁が共に言う。「来りませ。」これを聞く者も言うがよい。「来りませ。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受け取る分け前を取り去るであろう。これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来りませ。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。ヨハネの黙示録22:17-21
一般社団法人日本聖書協会
・復活して天に昇られた主が、再びお出でになる終わりの日を待ち望みつつ、備えて生きるのである。
(「4、最後の審判、救いの完成」)
・覚醒が遅れている。
・神の国とは、神が王として支配されることを意味する。
・その完成はなお将来に属している。だからこそ、主イエスは、終わりの日の完成を目指して前進する教会に、あの祈りを与えてくださった。教会は「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように」との祈りに続けて「御国が来ますように」と祈る。
・終末論的な祈りとして「主の祈り」を与えてくださったのである。
・神の国の「すでに」と「いまだに」によって区切られた間の時、「中間時」は教会の時である。それは、神が忍耐をもって待っておられる時でもある。終わりの日を待っているのは人間だけではない。むしろ、神も待っておられる。教会が主の飯召しに応えて、公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の業に励む事を通して、一人でも多くの者が救いに入れられる事を忍耐しつつ待っておられる。
・主は多くの者たちを救うために、教会をこの世から召し出し、この世へと遣わしておられる。
・「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」・・・神の領域である「永遠」と人間が生きている「時間」の対比で捉えた方が良い
・地上にある教会は常に聖徒と罪びととの「混合した共同体」
・聖礼典はそれを執行する者の人格や道徳性によって左右されるものではない
・善い者と悪い者とを分離するのは、世の終わりの審判の時であって、歴史おいて先走りしてはならないものである。
・真の教会は信仰者の共同体であって、福音が説かれ聖礼典が正しく執行される。教会の一致にはこの2つ(福音説教と聖礼典)があれば足りる。
・神の言葉が純粋に説教され、聞かれるところ、そしてサクラメントがキリストの制定の通りに執行されれば、そこに教会が存在する。
・麦と独麦が混在することを引き受けつつ、キリストの義に与って義と認められ、キリストの聖性に与って聖化されることを求めながら、終わりの日の審判を目指して行くのである。
(5、中間期ー「すでに」と「いまだ」)
・霊においてキリストは私たちと共にいてくださる
・望みは信頼に似て、忍耐強く待つことを意味する。
・被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。ローマ人への手紙8:23~25
ー一般社団法人日本聖書協会より引用
・「このような希望によって救われている」というのは、直接的に言えば、「待ち望むという在り方で救われている」ということである。
・キリストの来臨によって、すべてが正しく裁かれ、神の救いの歴史が完成される。教会は、その日を待ち望みつつ、福音の純粋な説教と聖礼典の正しい執行がなされる主の日の礼拝において、キリストの霊的現臨に与り、霊の命に豊かに養われながら、愛の業に生きる。そのようにして、伝道の時として備えられた中間時を、望みをもって前進していく。
・危険がさったら聖餐を再開?いつまでたってもできないのでは?
・信仰の戦いー何を大事にするか。
・信仰を神様に試されている。
・今は中間時、伝道の時です。
以上