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使徒信条について№7-2

「苦しみを受けよ、受難の出来事は、主イエスの生涯のクライマックスを指し示しています。「父なる神の永遠の怒りと裁き」はイエスさまを死なせしめるほどの、想像を絶する裁きだったわけです。イエス・キリストはそういう罪を砕く神の力に砕かれて、十字架上でいのちを棄てられました。

キリストは十字架の上において肉を裂き、血を流されました。キリストのわざは初めから終わりまで神の愛のわざであり救いのわざでした。それはまた人間イエスのわざ、言葉と行いにおいて神に自らを献げた人としてのわざです。その意味で、主のみ苦しみと死にいたる道は、この最も惨めな弱い姿の中に、最も力強い神の恵みが満ちていることが示されています。わたしたちに、十字架の死によって、神の救いと愛のわざが決定的に示されているのです。

使徒信条についてNO.7(週報からの抜粋)

「使徒信条」は生誕からいっきに十字架に飛んでいますが、それはなぜでしょうか。

ハイデルベルグの信徒問答集の中に、「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。」と、問い37にあります。その答えの前半は、「キリストがその地上でのご生誕のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する怒りを体と魂に負われた、という事です。」となっています。

「苦しみを受け」という言葉は「とりわけその終わりにおいて」と言われているように、主イエスの生涯の終わりに目を向けています。それは、全生涯を表すのにふさわしい言葉です。受難の出来事は、主イエスの生涯のクライマックスを指し示しています。なぜなら、わたしたちの想像を絶する苦しみ、それは主イエスの存在の意味そのものだったからです。

使徒信条についてNO.6(週報より抜粋)

今回はおとめマリアより生まれの2回目です。

神はクリスマスにおいて、マリアをキリストの母としてお選びになりました。わたしたちはこの出来事を通じて、罪のゆえに御前に誇るべき何ものもない卑しいわたしたちを、なお憐れみのゆえに顧みてくださる事を知って、神を喜びます。

使徒信条が、イエス・キリストはおとめマリアより生まれた、と主張するのはイエスが神からのものである事を強調するためだけではなく、他のすべての人々と同じこの世に、「罪を他にしては、私たちと全く同じひとりの人間として」として生まれた事を、力説するためにあるのです。

それは神がわたしたちと共にいて(インマヌエル)くださるの出来事であったのです。

使徒信条についてナンバー4

4回目は「イエス・キリスト」です。使徒信条の原文では「われは信ず、イエス・キリスト、そのひとり子、われらの主を」となっているようです。ですから、「主イエス・キリスト」を信じるとは、使徒信条の中核になります。

「キリスト」ですが、これはご承知のように「メシア」です。もともとは、油注がれた者という意味で、旧約では王、預言者、祭司などが油を注がれてメシアと呼ばれていました。初代教会は、この「キリスト」という称号を持ちいることによって、主イエスをキリストと告白しました。

それは、彼こそ王の中の王、預言者の中での最大の預言者、祭司の中の最高の祭司であり、神の信任を全面的に受けている者と言うことを意味していました。旧約の長い継承を背景に、イエスがまことのイスラエルの救い主、キリストであると告白したのです。

お薦めの暗唱聖句10選 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

聖書は、神の戒めを心に深く刻み付けるよう教えている。「それ(神の言葉)をいつもあなたの心に結びつけ / 首に巻きつけよ」とは、箴言6章21節の言葉だ。キリスト者にとって、神の言葉を「心に結びつけ」るということは一体、どういうことだろうか。

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使徒信条についてNO.3(週報からの抜粋)

次にわたしたちの主という称号です。これはわたしたちは身近で親しみやすく感じます。

トマスは復活のイエスに出会った時わが主よ、わが神よと叫びました。弟子たちがというとき、それは、彼らが仰ぎ、見つめ、祈り、訴え、また、その教えに聞き従うとする唯一の神を意味していました。

使徒信条はおとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に告げられ、死んで葬られた、ナザレ人イエスを主と告白することが肝心なことです。弟子たちのイエスに対する呼びかけも主よであり、主イエスよでした。

イエスは主なりは原始教団の合言葉であったといわれ、もっとも基本的な信仰告白でした。パウロはローマ信徒への手紙10:9でイエスは主であると公に表すことを救いの条件としています。

使徒信条について(週報からの抜粋)NO.2

我はその独り子我らの主、イエス・キリストを信ず

 

わたしたちクリスチャンが信じているどんなことも、イエスについてどう信じているかによって、立ちもすれば倒れもするのです。

今回はそのひとり子という称号です。ひとり子の内容は御子と同じです。新約聖書が、イエス・キリストをひとり子、すなわち神の唯一の御子として証言しています。

御子は私たちのキリスト信仰の出発点であり、そのひとり子という語句は、キリスト信仰の本質にかかわるものです。もしこの言葉が真実でないとしたならば、福音は吹っ飛んでしまいます。御子とは、主イエスの神との関係を示す言葉であり、聖書が福音と呼んでいるところのものを示しています。

使徒信条について(週報からの抜粋)NO.1

私たちは、教会の慣わしだからというので、また礼拝のプログラムに組み込まれているからと言う事で、形式的に通りいっぺんに使徒信条を唱えてしまう事はないでしょうか。または唱える事で、どこか何となく敬虔な自分になったように思っていないでしょうか。

使徒信条を告白する時、本当に「主を信じている」と言い得るのか?この問いへの答えが求められているのです。また、使徒信条を唱える事は、自分たちの信仰を個人的に告白するのですが、同時に公にも告白する事です。わたしたちが信じているのは何なのでしょうか。わたしたちが信じるのは、一人の人格「イエスキリスト、神のひとり子、わたしたちの主」です。

「我はそのひとり子、我らの主、イエスキリストを信ず」。わたしたちが信じているどんな事も、イエスについてどう信じるかによって、たちもすれば倒れもするのです。

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