もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。伝道者の書4:12
アーメン!
困難にあった時励ましてくれる友達は、1~2人はいました。でも最終的に乗り越えるのは自分です。それらの友人が状況を変えてくれるわけではありません。
助けてくれる人以上に暴言を吐き、痛めつける人は大勢いました。最初はいい顔しても途中で背中を翻す人も圧倒的に多くいました。わたしをいたぶる人間は子供だけとは限りません。
野次馬で近寄ってくる大人も大勢いました。彼らの言い分はこうです。
お前が悪いんだ
いじめられるのはお前が悪いんだ。
だから嫌われるんだ。
その理由を細かく聞くとこうなります。
なんとでもいえば?
これで理由わかります?
さらにつっこんで聞くと
偉そうに!ふん!
ようはいじめる根拠がないのです。
先日も駅で”だから嫌われるんだ!”とつぶやいていた、太っちょで若干ぶさいくな若いお母さんが、子供あやしながらつぶやいている姿に遭遇。
しっかり子供がそばで聞いていますよ~汗
いじめはこうやって子から孫へ受け継がれていくんですね・・・。
そういうわけで、わたしはいつも孤独だったので、わたしのはけ口はもっぱら神様です、今でも。
神さまにも不満を持つ事が多いです。
”なんでこんな出来損ないに作ったんだよ~”
”神様ならわたしを今すぐここから助け出してみろよ!”
どこかで聞いたような・・・。
そう、イエス様と一緒に磔になった極悪人のセリフです。
どん底に落ちた人間のやるせないうめき、どこにもぶつけようのない絶望感、怒り、悲しみを神様にぶつけたのです。多くの神学者はこの極悪人を否定的に見ています。
本当に救われたのはもう一人の極悪人だったというのが、大半の話の結末です。
でもね少なくともつぶやいた極悪人は神様に、目を向けたんです。たぶん初めて。聖書は説明が不親切なのでその後この極悪人が、やっぱり悔い改める事なく終わったのかわかりません。
少なくとも今のわたしはつぶやいた極悪人です。
たぶんこれから関わろうとしているのも、つぶやいた極悪人ー少数派です。
「主よ・・・」と呼びかけたもう一人の極悪人は、悔い改めた時点でもはや少数派でなくなっています。神様のまなざしも実はつぶやいた極悪人に、なお一層向けられていたと信じたいわたしがいます。
哀しい憐れみに満ちたまなざしを向けていたのではないでしょうか。イスカリオテのユダにそうだったように、最後まで愛し通された主のまなざしが、わたしと彼のような哀しみの人に向けられているんです。
ちゃんとイエス様の福音を伝えるべき人ですよね。
他のみなさんはどう思いますか?
アーメン
今日のお祈り~
多くの少数派の方々が、神様の懐に慰めを得られますように。