救われた時


わたしは物心ついた頃からののしり殴り合う両親を見て育ち、母からは“とっとと死ね”、”おまえがお腹に出来たせいで、あの男と別れられなかった”、父からは“失敗作品だ”と言われて育ちました。母からはたびたび暴力を受けていました。頭を湯船の水の中に沈められた体験が、今もトラウマになっていて夕方以降のシャワーを浴びることが出来ません。怖い母親やいじめから逃れたいという思いから、死にたいと考えたのは8歳の時で特に中学生の頃から自殺願望がありました。

 

父は明らかな発達障がいの傾向があり家族中が父のペースに振り回されてへとへとでした。父の気まぐれで東京から新潟へさらに長岡市内を転々と移動もしていました。特に母はたまに暴力をふるわれていたようです。交通事故がきっかけで働かなくなった父に代わり水商売をしながら幼いわたしと父とを支えていたのは母です。

1級身障者となった父を叱咤激励して自立させたのも母でしたが、生活が安定してきて贅沢も出来るようになったとたん、父はすぐに若い愛人を作って母を追い出してしまいました。妹は母についていきました。大学入学の頃のことです。

この時妹は中学生でした。毎晩のようにふすま一枚だけで仕切られた隣の部屋から両親の罵声とばたばたと走り回る音が聞こえていました。妹はずっと恐怖と絶望感で泣いていたようでしたが、当時のわたしは自分の事でせいいっぱいで守ってあげられなかったのです。今でもかわいそうな事をしたと思っています。

父は離婚後半年ほどたってその愛人と子供を家に連れてくるなり、わたしに「お母さんと呼べ」と指示しましたが、10歳くらいしか離れていないきゃぴきゃぴの金髪ギャルのような女性をお母さんとよぶのはむずかしかったです。

わたしにも家を出ていって欲しかったらしく、愛人と一緒に猛烈ないじめを始めた父から、就職を機に逃れるように上京しその後、家に帰る事はほとんどありませんでした。

その父も10年ほど前に病死し一ヶ月後に後を追うように母も急死したらしい事は、塩尻の地で遠く離れた妹から電話で聞かされていましたが、葬式には一切招かれずまた出ていませんので詳しいことはわかりません。成人した妹の顔は、写真でしか見たことがないのでやはり今の素性がわからないです。

話が前後しますが、わたしは茨城キリスト教高校に入学しました。というより入れられました。父はクリスチャンだったわけではありません。わたしが入学した学校は有数の名門校であり、別名お嬢様学校と呼ばれる私立の学校でした。父兄のほとんどが医者、政治家、議員、会社社長、重役、会長といった人たちです。

当然寄付金も当時としては相当な額だったようです。見栄っ張りな父がこれを見逃すはずもなく、見事入学。そうしてこれを機にわたしの人生は大きく変わっていったのです。初めて授業で手にするぶ厚い聖書の1ページめを開いたとたん、思わす「プーッ!」と吹き出してしまいました。”天使?悪魔?まるっきりおとぎばなし、こんなのを大の大人が本気で信じているなんてあほか”これが最初の印象です。しかしその一年後、わたしはクリスチャンになっていました。これは父にしてみればとんでもないことだったのです。洗礼を受けた教会へ怒鳴り込んだようです。

毎朝の放送礼拝、週に一度の全校礼拝、毎日の聖書の授業とあり、家にいるときも時々聖書を興味本位と学期末試験対策のために読んでいました。何気なく開いた時に1つの聖句が目に飛び込んできた事がありました。

「悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう」というマタイの福音書の一節です。不安と強い悲壮感がいっぺんに吹き飛んでとっても軽い気持ちになれたのを憶えています。聖書っていいなあと初めて感じた瞬間でした。でも本当にわたしの心にみことばが入ってきたのは、二年生になってからです。恒例の朝の放送礼拝の時でした。

説教者は誰だったか覚えていません。後にラジオ聖書放送「世の光」であった事がわかりました。だから羽鳥明先生だったようです。最後の終わり方がいつも同じだったように記憶しているのですが、「・・・神様は命を捨てるほどに人を愛してくださいました。

あなたも変わります。」という結びの言葉だけが強烈に脳裏に焼き付いています。ずっと愛されたいと心から欲していたので、この言葉がまるで清水のようにするすると心の奥底に流れ落ちてきたのです。そして少しずつ硬く凍りついた心を溶かしていきました。涙が止まりませんでした。やっとわたしのSOSを捕らえてくれた、それがキリストの神様でした。そうしてわたしはホーリネス教会に通い始めクリスマス礼拝で洗礼を受けたのです。

考えてみると、わたしは神様と出会ってから好むと好まざるとに関わりなく、どっぷりと神様の愛に浸りきって生きてきたように思います。

まずキリスト教高校に入学できたことが奇跡だと思っています。愛に飢え乾き、すべての心の支えを失い、絶望的な状況に追い込まれていたからこそ、神様のみことばが心に強く響いたのです。同じ敷地内に茨城キリスト教四年制大学がありました。

わたしはほぼストレートで進学しました。というより他の選択がことごとく消滅したゆえの入学でした。専攻は人文学部キリスト教学科社会福祉コースです。今このコースはありません。それを指示したのはまたも父です。理由は就職率が良さそうだからという事でした。

でもこの選択は正しかったのです。ここでカウンセリングと出会い、ずっと念願だった”心”のケアを受けることができたからです。保育園の頃から精神科に診せた方が良いと指導を受けていたらしいのですが、父の答えはいつでも「みっともねえ」でしたから、精神科を受診した事は一度もありません。

高校生になった当時わたしの心と体はオーバーヒートをおこしていて、たえず体液が流れて衣服をびしょびしょにするという症状を発症していたゆえに、ついたあだ名がしょんべんたらしです。そうした心身の異常とさようならできたことや、小学生時分から続いていたストーカー行為をやめることが出来た事は何より大きい事でした。

敷地内にたまたまカウンセリング研究所が設置されていて、クリスチャンサークルの先輩がわたしを誘ってくれたのです。当初わたしの精神年齢は3歳だと言われていましたが、卒業する頃にはやっと15歳まで回復していました。

当時は一切だれの言葉をも受け付けず、聖書の御言葉もまったく頭に入ってきません。感謝の心もわきません。絶望感と悲壮感ついでに自殺願望とに悩まされました。サークルのイベントで参加した箱根のKGKキャンパスクルセードでのカウンセリングセミナーの中で、カウンセラーとして用いてくださいと、ほんの数分だけ祈りましたが二十数年の時を経て、わたしは本当にカウンセラーになりました。

卒業後初の就職先は東京にあるホーリネス系の病院でした。ですから自動的に毎週礼拝に参加できていました。これも感謝です。でも本当は卒業と同時に教会も聖書ももういらないと思っていたのですが、結果的には他の就職先は全部だめで、だめもとでアプローチしたらOKだったのです。

体は大人でも心は15歳ですから過酷な看護職がうまくいくはずもなく。一年で解雇です。その過程で知人を通じて共働学舎の宮嶋真一郎さんに出会い、わたしはその後北海道と信州とを合わせて20年の歳月を過ごす事になります。

共働学舎には、わたし以上に”生きづらい”というより、”生きられない”人たちが生活をしています。わたしは、そのなかで、もみくちゃになりながら、「人との関わり方」を学んでいきました。ずいぶんと荒治療でしたが、これくらいでないと当時のわたしでは、どうにもならないレベルだったのかもしれません。

ここで学んだ事の1つ。それは”愛”です。「生ける者すべてが、神の慈しみの中で生かされている」この発想は、当時のわたしには、とても新鮮でした。私は温かい家庭というものをドラマの中でしか知りません。ペットは”不要になったら捨ててもいい動くおもちゃ”でした。生体とぬいぐるみの区別もまったくつかなかったのです。

飼っていた子犬の目のゴミをとってあげたくて、目に針を刺したり、ブローチで飾ってあげようと皮膚に針を刺したりした事がありました。だけど一度も怒られた事はありません。でも、共働学舎では家畜も犬や猫も“家族”と呼びます。

だから、動物の一匹が病気になると可能な限り交代で昼夜問わず看護を死ぬ時までよりそうのです。わたしも、その愛されている命の1つであると、親方は何度も語ってくれました。時にはわたしの背中をやさしくさすりながら・・・。初めて畑の土を両手ですくった時に、肌を通して感じたぬくもり、命の暖かさが指の先から体中にしみわったってくるようでした。
牛の背中にそっと手をおいてみました。そしたらとても暖かいとおもいました。動物は生きているのだとも初めて感じました。共働学舎はすべての人に“お給料”と称して小遣い程度のお金が支給されます。おおよそぜいたくは無理ですが、衣食住は完全に守られています。そうして自分を取り戻していったのです。

やっと見つけた安住の地、わたしの居場所・・・その暖かい居場所をなぜに、40代半ばにして出てきたのか、それも重度の精神障害を抱える亭主を引き連れて・・・。まるで、苦労を引き受けるような愚かな行為と多くの人は思ったでしょう。でも、わたしの心の底から湧いてきた“社会でもう一度生きてみたい”という欲求を、どうしても抑える事ができなかったため共働学舎に別れを告げ、わたしは今の生活を続けています。

生活のために開始したアルバイト探しの第一声は“あなたのように問題を起こしかねない人間は我が社では雇えません”でした。不眠症治療薬を飲んでいる事を正直に履歴書に書いた事が原因でした。その後も共働学舎にいたことは隠した方がいいとのアドバイスを頂いた事もあり、履歴をごまかしながら仕事を探しましたが、最速一週間で解雇されるなどリストラに次ぐリストラで、気力が失せたある日わたしはこう祈ったのです。

“もう疲れ果てたので生きるための仕事探しはやめて本当にやりたいことだけをやります。これでもしも私や夫が死ぬことがあれば神様が全部悪いんです。最後は神様を呪って死んでやるから覚悟してください”。で、内職をしながら様々なセミナーに参加しやりたい事を探しました。

最後に参加したカウンセリングセミナーで、まじめに取り組んでみようと決意し、まず神様に聞いてから決めようと思いって、特に通っていたわけではないのですが、思いつきで松本カトリック教会の礼拝堂へ入ったときに、目の前の机にたった一枚だけ週報が置かれてあるのを見つけました。そこに書かれてあった御言葉は

 

“「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」”

でした。

なぜかわかりませんが“神様がどこかへわたしをつれだそうとしている”と考えるのと同時に、“次のステップへ進む(?)”と言う言葉が、繰り返し頭の中を交差しました。その御言葉を目にするのは朝とその前の晩とを入れて3回目だったのです。

“どこへ連れ出されるのでしょうか?”と祈ったのですが、いつもと違ってまったくなんの御言葉も心にひびかず、“ついてくればわかる”と言われているような気がしたので、“どこにいくのかわかりませんがしたがいます。わたしをおつかわしください”と祈りました。

この時わたしの脳裏には導きを受けた時のアブラハムさんが見ていたであろう砂漠の光景が広がっていたのです。先が見えない恐怖と不安で胸が苦しい、足がすくんで言葉も出ない、アブラハムさんが導きを受けたのは70代、わたしはそれよりも30代も若いのです。年寄りにできて若い者にできないわけないだろうと、言われているように思えました。もしもこの時に砂漠の光景が見えなかったら、おそらくはいとは言いませんでした。

神様はちゃんと生活をもしっかり支えてくださっています。“神様なんか何もしてくれないよ”と言っていた主人も塩尻で救われました。

ちなみに私は当初松本に住むつもりで家をさがしたのですが、“塩尻に住みませんか”というまったく面識のない訪ねたこともない不動産屋さんからの、突然の電話連絡がきっかけで住み始めたのです。

実際にどのような災害の時にも近隣の街々が被害を受けているのに、わたしが住んでいた周辺はびくともせず、生活もしやすく良い場所であることがわかりました。今通っている塩尻アイオナ教会は上村家とも縁の深い教会だと後で知りましたし、共働学舎ともつながっています。

“波瀾万丈の人生”と評される事もしばしばですし、確かに自分でもよく生きて来られたなと思います。偶然の重なりと言われれば、そうとも言えなくはないですが、すべてが数珠つなぎにつながって、一連の出来事として起きているのです。

・もしも母が、父ではなく、別の男性を選んでいたら・・・

・父が究極のエゴイストでなければ・・・

・入学した学校が、キリストと全く無関係だったら・・・

・大学に、カウンセリングルームがなかったら・・・

・そして、たまたま就職した先が宗教法人でなかったら・・

そう考えると実にうまい組み合わせです。わたしが生まれる以前から、わたしだけの人生プランが用意されていたのかもしれません。カウンセリングセミナーの中で自分が“発達障害”である事を知ってから、仲間のために生きようと少しずつ気持を固めていきました。

こうして振り返っていくと背後に神様の大きな働きがあった事を痛切に感じずにはいられません。良い事も悪いことも神様の御計画の中で起きていて、わたしの一生はわたしの成長に合わせてステップを一段、また一段と上がっていくように進んでいきます。”わたし”という人生プランは、あまりに壮大で、限りある知識では、端から端まで見渡す事ができません。

 

クリスチャンになると言うことは苦しみから解放されるということでは無いのだと体験から学びました。だけど主はいつもわたしのそばにいて慈愛に満ちたまなざしを向けてくださっています。

時々御言葉ではなく、“自分で考えてごらん”か“ついてくればわかるよ”といったような、祈りに答えないというお答えを頂くことがあります。

だから聖書を読むようになってから、とってもよく考えるようになりましたし、じっと信じて待つ練習にもなりました。そういう意味では祈りに答えられなかった事は一度もありません。

もう一つ学んだ事があります。わたしはしばしば牧師から「休まれてはいかがですか?」というきれいな言葉で教会から出されてしまうほどの問題児だったのです。

共働学舎に入ったのを機に教会へ行かなくなり、町に住むようになってからも一人礼拝を守っていた時期がかなりあるのですが、助けてくれる人が周囲にいない環境は、父なる神様へ嫌でも目を向けさせました。

”神様・・・”という呼びかけが引き金になって、心のうちにある思いをぼろぼろと吐き出し、時には神様の前にただうなだれながら何時間もすごす事もありました。いつも神様は祈りに連動した御言葉で答えてくださいました。わたしと神様との不思議な押し問答が数ヶ月におよび、わたしは完全にうつから抜けだしたのです。自然に主の御栄光がありますようにという祈りが、口から出るようになりました。

もしも牧師や教会から同じ事をいわれたら、”はいわかりました”と素直に従って、神様とたっぷりおしゃべりを楽しんでください。教会へ行きたくなったら神様にお願いしてください。願いに応じて導いてくださいますからだいじょうぶです。

わたしの人生は神様と出会い、神様の愛の懐にとどまりながら、導かれるままに生きていく人生であり、事実すばらしい恵みと溢れるほどの祝福を注いでいただいていました。わたしの人生は“神様ありがとう”の人生です。

上村家の1日は朝礼拝で始まります。主の祈り・賛美歌・聖書拝読・テキスト拝読・各自のお祈り。時間にしておよそ20分の短い時間ですが、私たちにとっては何にも代え難い毎日の習慣です。どれだけ朝が忙しかろうとも、けして”きょうはなし”とはならないんです。かれこれ10年以上は続いています。肉体のご飯は一食くらい抜かしても生きていけるのですが、霊のご飯は一食でも抜かすと、たちまち迷いの縁に迷い込むと、本能的に感じているせいかもしれません。

主人とのデボーションの前に聖書通読を兼ねた主と一対一になれる時間を持っています。主人とのデボーションは5月くらいから11月くらいまでの夏時間は朝6時から、12月くらいから次年度4月くらいまでの冬時間は朝7時から始めています。

わたしたちは神様の御栄光を表すために作られて、かつ生かされているのです。わたしたちの思いではなく主の御心が、なされるところに主の御栄光が表されるという事もわかりました。聖書にはすべての道で主を憶えよ、そうすれば私たちの道をまっすぐにされると書かれています。

教会までたどりついたのに深く傷ついた人たちと、あらためて聖書の学び直しがしたくて、聖書を読む会を始めました。礼拝には参加出来なくても、その入り口で良い交わりができたら良いなと思います。どのような形になっていくのかまだ先が見えないのですが、少なくとも主のふところはとても暖かい、まるで羽布団のように優しく安心していられる場所だと、そう感じられる空間があったらいいとも思います。もっともっと聖書を勉強しなきゃとも思います。

せいさん式や洗礼式のように御言葉の根拠がきちんとあるものは、人間がやたらといじれませんがそれ以外の部分なら、ちょっとだけ変えてもいいのかなとは思いました。

 

今力を入れて祈っている事が一つあります。牧師の働きのために祈る事です。けして個人的な祈りというではなく、教会が教会であるために牧師にしっかり働いていただかなければなりませんし、牧師の働きのためのお祈りは、厳正なる公同の教会としてのお祈りです。かつてある牧師から言われた事があったのですが、牧師は誰よりも誘惑に会いやすく真っ先に神様の前に召し出されて、だれよりも厳しい審判を受けるのだそうです。

だから牧師の働きのために祈って欲しいとも祈祷会で言われました。

農村伝道神学校のみなさんが祈りのネットワークという、すばらしい小冊子を作ってくださいましたので、それを使って毎朝1教会1牧師および母教会牧師の働きのためにお祈りさせていただいています。とても感謝です。

さらに自分の中でこれがいっぱいだと思う献金をすると、うんと恵まれると教えてもらった事がありました。報酬をもらったらまず神様にささげる分を分けてから、そのあまりで生活をさせていただくというのが、本来あるべきクリスチャンの生活だと気付いて、献金を倍にしてみました。そうしたら今までと変わらず必要が満たされている事に加えて、心も生活も実にすっきりとしたものに整えられています。

人は自分で蒔いた種を自分で刈り取る事になると聖書にもあるように、救われているからといってさすがに自分でやらかした事をなかった事にはしてくれないんです。そんな自業自得の人生であっても「 わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない 」と言ってくださる神様の懐はどこよりも温かいのです。

わたしが信じている神様はこういう神様なのです。

主に御栄光がありますように___。

投稿者: nozomigr

アスペルガー症候群およびADHD(注意欠陥多動性障害」という診断名を持つ当事者です。生きづらさを持つ人の交流会・あずさの会創始者兼スタッフメンバー、大人の発達障がいピアサークルあるあるらぼのスタッフメンバー